p21・22 11 御留藪
<『さいお』春日井市立西尾小学校開校100周年記念ハンドブック>
春日井市が発行している『新修春日井市近世村絵図集』という書籍がありまず。この原図は、徳川林政史研究所所蔵のもので、天保年間(江戸時代末期)のものとして、当時の村の絵地図が収められています。この西尾村と明知村のところを見ると「御留藪」というものが書き込まれていることがわかります
『さかした』を見ると、御留藪は,西尾村に3か所、明知に6か所あったと書かれています。御留藪と尾張藩直轄の、庶民が入ることを禁じた竹林て、留山や巣山と司じようなものと思われます。当時一色村(坂下)に住んでいた御竹奉行が管理していたとのことです。この竹は、毎年軍用の旗竿として切り出し、勝川にあったという地蔵池に送り、そこで水によく浸して竹の油を収り、尾張藩に届けていたそうてす。
旗竿とは、幟を旗としてくくりつける竿のことてす。幟に武田信玄の「風林火山」や上杉謙信の「毘」が有名ですが、もともとは武士が戦場などで敵味方を識別するために使われてきたもので、武士にとって大変大切なものです。そのため、武士は伐るという言葉を嫌って、立つると呼びました。
この地域の竹は、土質、気候が適しており、良質の竹材を産みだし続けました。明冶から昭和の初期にかけては個人所有となっていましたが、竹林1反(約1 0アール)を所有している家は、田を1町(約1 ヘクタール)もっている家と同じと言われたそうです。しかし、戦後の乱伐と竹の病気、そして、竹の需要がなくなったことなどから、竹林荒れてしまい、今では所々にある竹林がその面影を残しているのみとなってしまいました。
留山・巣山
留山とは、伐採されて荒廃した木曽の山林を保護するためにとられた尾張藩の政策のことです。「木一本、首ーつ」と言われるほどの厳しい管理が行われ、住民の立ち入りが禁止されました。
巣山に、戦国大名か鷹狩りをするための鷹を繁殖させるために巣を保護したことから始まったと言われ、やはり住民の狩猟、出入を禁じました。
留山でも巣山てもない藩の山は「明山」と呼ばれ、これは住民の利用が許されていました
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